まず通常パートでは確固とした世界観を背景にグレース達の思い、先駆者としての過酷さや孤独が描かれていて、それだけでも本作は音声作品として傑出している。しかしこの作品はそれが、単に完成度を上げるだけでなく抜ける作品としてより高みに登ることにすら寄与する、驚くべき構造を持っている。
私はグレースの霊能力を彼女の優しさとして解釈すべきだと思う。軽く見ていた主人公の中に先駆者としての深い孤独を見出したグレースは、それを慰めるためにママを演じる。この「演じる」というのが単なるごっこではなく、実際に主人公(聞き手)に対してママだと信じさせようとしている点が重要だ。これにより聞き手側は、単なるプレイとしてではなくグレースの真の思いやりを受け取る形でバブみを見出すことができる。
更に、彼女が「演じる」ということに自覚的なのが没入感に大きく寄与している。彼女がママを演じているということは、涼貴涼がグレースを演じているということと相似形なのだ。故に聞き手はこの作品の虚構性を、主人公としてグレースの演技を受け取ることへ感情移入の材料としてむしろ利用することができる。「演劇を演劇する」というメタフィクション的に鑑賞者を当事者へと引き上げる最先端の演出法(さやわか『キャラの思考法』を参照)がここには活きている。
そして聞き手と主人公が十分に融和したとき、"主人公の"ママという媒介項は最早不要になる。グレース自身が聞き手=主人公のママであり、私たちはグレースの存在そのものをフィクションの壁を超えて感じ取り、その母性に包まれるのだ。こうしてグレースが我々自身のママになるのである。